Mark Teh(マーク・テ)インタビュー

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歴史、記憶、都市などをテーマに様々なプロジェクトを行っているMark Teh(マーク・テ)。その作品は世界でも注目され、日本でもTPAM(国際舞台芸術ミーティングin横浜)、シアター・コモンズ、Kyoto Experiment(京都国際舞台芸術祭)などで毎年のように上演されています。また2018年12月~19年3月まで山口情報芸術センター(YCAM)で開催され、その後東京とチェンマイに巡回した展覧会「呼吸する地図たち」では共同キュレーターを務めました。

「呼吸する地図たち」プロジェクトでの経験や、今後のプロジェクト、新型コロナウイルス危機下でのマレーシアのアートシーンについて話を聞きました。 

 

山口情報芸術センターYCAM)で開催され、その後東京とチェンマイにも巡回した「呼吸する地図たち」は、さまざまなレクチャーやパフォーマンスから構成されたユニークな形式の展覧会だったと思いますが、なぜそのようなアプローチをとろうと思ったのですか?

 

「呼吸する地図たち」のコンセプトの指針の1つになったのは、宮本常一とういう民俗学者でした。彼は1939年から日本全国を旅しました。生涯をかけて、16万キロ歩き、日本列島の隅々にある村を訪ね、農民、漁民、大工、猟師、木彫師、村の老人たちなどから話を聞き、物語やモノを集め、写真を撮り、消えていく人々の生活を記録しました。数年前、友人の樋口貞幸さんから、宮本が書いた「忘れられた日本人」という本をもらいました。偶然にも、宮本は山口県周防大島生まれでした。

 

共同キュレーターの井高久美子さんと私は、歩いて、社会変化を観察し、人々と話すという宮本の「方法」からインスピレーションを受けました。それは、現在でいうところのカルチュラル・マッピングの初期の形だったのだと思います。日本は一般的には単一文化的であると考えられていますが、宮本は日本社会に存在する多様性や差異を明らかにし、記録しました。「呼吸する地図たち」で、私たちは、自分たちが住む社会や文脈に、この感受性を呼応させ、拡張させていると考えたアーティストや研究者に声をかけました。人々、実践、場の間の想像力に富み、しかしあまりリサーチされていない継続性に焦点を当てた作品を作っている人、広い意味で、カウンター・マッピングの可能性に関心を持っている人たちを集め、様々な場を設けました。

 

これまでにパフォーミング・アーツのイベントをキュレーションしたことはあるのですが、展覧会に関してはほとんど初心者でした。井高さんが、メディアや展覧会のデザインに関して専門的な知識を持っていたことは、異なったアプローチをとりながらも、協働作業をしていく上で非常に助かりました。またYCAMは、学際的なリサーチセンターという土台を持っているので、実験を行うには最適な場所でした。

 

2018年12月から2019年3月まで開催された「呼吸する地図たち」では、、インスタレーションやビデオ・ワークの他に、YCAMの大きなホワイエで毎週末イベントを企画しました。YCAMのホワイエを私たちは進化する公共広場として捉えていました。開幕した週の週末には歴史家のFarish Noor(ファリッシュ・ノール)によるレクチャーを行いました。(植民地時代の)地図製作、権力、帝国の関係についてのレクチャーで、特に1817年にトーマス・スタンフォードラッフルズによって出版された地図に焦点を当てたものです。この時代は、伊能忠敬が西洋の調査法を使って初めての『近代的な』日本地図を作成しようとしていた時期に重なります。

 

さらにJanet Pillar(ジャネット・ピレイ)によるカルチュラル・マッピングの類型と可能性に関するレクチャー、様々な形の『海賊』像や時代を超えたその変化について探る高山明による3日間のリサーチ・ワークショップ、からゆきさんに関する自身のリサーチに焦点を当てた西尾佳織によるパフォーマンス・レクチャーなどがありました。からゆきさんは、明治時代によりよい生活を求めて海を渡り、性産業に従事した若い女性たちです。その墓は東南アジア各地に点在しています。からゆきさんの時代はまた、将来を嘱望された長州や薩摩の若い男性たちが、近代的な技術や思考を学ぶために西欧に派遣された時代でもありました。


YCAMのホワイエには12週の間テントを設営し、それぞれの中で、それまでに行われたイベントの記録動画を上映し、プロジェクトに参加する異なったアーティストやリサーチャーたちの対話が積み重ねられていけるようにデザインしました。「呼吸する地図たち」の開幕時に観客が出会ったものが、変化し、新たに出現した意味により、より多層的になるように、展覧会という形式をより拡張させようという試みでした。

 

2020年の1月に東京、そしてチェンマイを巡回した際には、形式をさらに変化させました。YCAMでのイベントのビデオ・アーカイブの展示を行うだけでなく、1週間毎日、レクチャー、パフォーマンス、シンポジウムを行いました。これによりイベント同士の密度や共鳴が強くなりました。プログラムは、小さなフェスティバルのメタボリズムを獲得し、参加者はとても重要なことに、非公式な形で互いにスペースを共有しました。東京でもバンコクでも、YCAMで行ったいくつかのイベントを行いました。イミグレーションを通らずにシンガポールの国境を超える8つの方法を提示したIrwan Ahmett (イルワン・アーメット)と Tita Salina(ティタ・サリナ)の『ネーム・ロンダリング』、Ho Rui An(ホー・ルイ・アン)のレクチャー・パフォーマンス『アジア・ザ・アンミラキュラス』、1903年に大阪で開催された内国博覧会における「人類館」を通して小原真史が行った、日本人の自己像と他者像の考察などです。

 

チェンマイでは、新たな参加者も招きました。歴史家Charnvit Kasetsiri(チャーンウィット・カセシリ)のレクチャー・パフォーマンス『帝国の酒杯と私』(演出:Ka-ge Mulvilai(カゲ・ムンウィライ、B-Floor)はタイと日本の歴史における主要事件と自身の人生の交差点を探求するものでした。キュレーターのGridthiya Gaweewong(クリッティヤー・カーウィーウォン)は『San Kamphaeng 101:特別な寺院・食べ物・工芸・スタジオツアー』で、「呼吸する地図たち」のメイン会場となったMAIIAM現代美術館が位置する地理的景観の中で、寺院、工芸工房、アーティストのスタジオ、ヨン族の食べ物、そして彼女自身のファミリー・ヒストリーへと観客を案内しました。またHo Tzu Nyen(ホー・ツーニェン)のレクチャー『東南アジアのクリティカル・ディクショナリー』なども行いました。

 

井高さんと私は16の都市を訪問しました。マニラ、コタキナバル、ジョージタウン、クアラルンプール、そして日本では山口、萩、鹿児島、仙台、大阪、東京、横浜、名古屋、豊田、城崎、そして広島です。各地で、調査、人に会って話を聞くこと、食事、県や地域の美術館の訪問、互いについてより知りあうこと、アイデアや直感を共有し、その後「呼吸する地図たち」となっていく枠組みを作り上げていくこと、を行いました。

偶然にも2018年は明治維新150周年に当たり、日本中を旅する中で、この出来事を記念し、記憶し、歴史化する、異なった場所の類型、関連、対立を観察することができました。例えば東北では、誰も明治維新を祝っていませんでした。私たちが出会った人々は、会津戊辰戦争で長州と薩摩に敗れてから150年だと語りました。博物館では、私たちは様々に対立する地図に出会いました。以前は多くの異なった「日本」が存在し、それは忘れ去られた、または周縁化されたことを示しています。それはオルタナティブな想像力や青写真-異なった方法での世界の知覚を提供するものでした。

 

私たちは、特にその様々な地図の間に横たわる違いに興味を惹かれました。私たちのプロジェクトのもう1つの概念的支柱になったのが、歴史家Thongchai Winichakul(トンチャイ・ウィニッチャクン)が著した『地図がつくったタイ(Siam Mapped) 』だったからです。この中でThongchaiは、いかに人間が作った境界、領域的な輪郭が近代国民国家を意味する当然のものとして受け入れられるようになったのかを示す『地理的身体(geo-body)』というアイデアを提唱することで、タイの歴史を再構築しました。ある国家の地理的身体は、ロゴまたはメタファーーメタ・フォームになります。タイは一般的な考え方では、植民地化された経験はありませんが、Thongchaiは、いかにタイが西洋の力と技術によるプレッシャーの下で、1850年から1910年の間に領域をもった『シャム』として実在するようになったのかというプロセスを追っています。Thongchaiが描き出した時代は、明治時代と重なっています。1868年頃、新しい神としての王が両国で即位しています。明治天皇(1852-1912)とラーマ5世(チュラロンコーン)国王(1853-1910)です。両王とも、一般的にはそれぞれの国民国家の「近代化の推進者」として知られています。こうした類似から、日本でのリサーチでは、日本の地理的身体を探求するための方位磁石として、Thongchaiの本を参照しました。Thongchaiがタイについて書いたことを、『誤読』して、日本に適用したのです。東京とバンコクでは、Thongchaiに「呼吸する地図たち」に参加していただく栄誉を得ました。『地図がつくったタイ』の1994年の出版からの25年間についてや、新著『Moments of Silence: The Unforgetting of the October 6, 1976, Massacre in Bangkok(沈黙の時間:バンコク・血の水曜日事件を忘れないこと)』について語っていただきました。

 

リサーチの間には、多くの特別な時間がありました。宮本の故郷、周防大島と、素晴らしいアーカイブを訪れたこと、志賀理江子やコラボレーターの清水チナツ、長崎由幹に仙台のスタジオで会ったこと、せんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」との出会い、そしてYCAMの展示に参加してもらったこと、本当にたくさんあります!

 

最も忘れがたいのは、Carlos Celdran(カルロス・セルドラン)のイントラムロスのウォーキング・ツアーに参加したことです。スペイン時代から残るマニラの城郭都市イントラムロスを3時間かけて歩く素晴らしいツアーでした。徒歩によるパフォーマンス・アートでもあり、スペイン、アメリカ、日本による植民地化、カソリック教会、そしてホセ・リサールを巡る神話―これらすべてがイントラムロスの地に堆積されている-の消去、忘却、遺産に対する高らかな笑いを含んだ悲嘆でもありました。Carlosは宗教への冒涜の罪により有罪判決を受けた後、亡命しましたが、その数か月後、2019年10月にマドリッドで亡くなりました。本当に大きな、衝撃的な損失でした。私たちの誰もあの時はそんなことになるとは考えていませんでしたが、「呼吸する地図たち」のために彼が制作したイントラムロス・ツアーのビデオ記録は彼のマニラに向けた最後のラブレターになりました。

 

-プロジェクトを現在振り返ってみてどのように感じますか?またそれを今後の作品の中に取り入れていく計画はありますか。

 

簡潔にいうと「呼吸する地図たち」は、日本に対する私の理解を深めてくれました。これまで何度も訪れたことはあったのですが、会議やフェスティバルに参加するためで、短期間滞在するだけでした。初めて訪れたのは2010年で、沖縄からでした。そのことによって日本の複雑な文化、歴史、政治へ非常に異なった入り方をすることができました。その後、様々なネットワークやパースペクティブを通して、日本に出会いました。アサヒ・アート・フェスティバルやとアートNPOリンクを通して、より社会活動的、社会連携的な世界に、TPAM ( 国際舞台芸術ミーティング in 横浜)では現代パフォーミング・アーツの世界、そしてFive Arts Centre(ファイブ・アーツ・センター)のメンバーが参加した様々な共同製作や交流を通してです。

 

自分のこれまでの環境の外で共同キュレーションを行った経験は、こうした形で引き続き知識の生産を行っていくことに、より自信を与えてくれました。調査し、地域のアーティスト、リサーチャー、旅行者と、時には衝突し、文脈や想像力を共有する、ということです。「呼吸する地図」たちからさらにつなげていきたいと考えていることがあります。奄美と沖縄の島々に関すること、そして宮本の「忘れられた日本人」に関するいくつかのアイデアです。またパフォーマンスを制作するものとして、キュレーションとドラマツルギーの間での重なりと緊張について、考え続けています。

 

「呼吸する地図たち」を通して、自分自身のパフォーマンス・プロジェクトとの継続性も見つけました。国際交流基金アジアセンターの古市保子さんから「何か」について共同キュレーションをしないかと誘われた時、自分自身の不安を減らすために、以前に行われたキュレーションの交流事業についてリサーチを行いました。それは「アジアとは何か?」「東南アジアとは何か?」という枠組で行われていました。今回誘いを受ける上で、その視線を返し、「現在の日本とは何か?」と質問してみることに興味を覚えました。これを行うための1つの方法として、一緒にレクチャー・パフォーマンスを行ってくれるよう古市さんを説得し、『アジアを歩く Jalan-jalan di Asia』を作りました。この作品では、古市さんが1990年代から一緒にプロジェクトを行ってきたキュレーター、アーティスト、そして同僚から集めた30のキーワードをもとに、古市さんは、国際交流基金の「展覧会コーディネーター」-裏方としての特異なキャリアの主観的な地図でありながら、現代美術、文化交流、国際関係、ソフト・パワーの領域を横切るものでもある-としての彼女の人生の物語や省察を共有しました。後になって『アジアを歩く Jalan-jalan di Asia』が(Marion D’Cruz(マリオン・ドゥ・クルーズ)と共同で制作した)『Gostan Forward』や過去数年の間にJanet PillaiやLeow Puay Tin(リャオ・プェイティン)とともに、会議の中で行ったパフォーマンスと共鳴することに気づきました。彼女たちはみな同じ世代で、1970年代に大学に通い、それぞれの分野-展覧会コーディネーター、ダンサー・振付師、芝居の演出家、劇作家・パフォーマー-における先駆者です。ドキュメンタリー・ポートレートの形をとったこれらのプロジェクトは彼女たちの貴重な仕事、考え方、物語をパフォーマンスを通じて記録し、共有することでした。

 

-昨年TPAMで上演された『仮構の歴史(A Notional History)』は、以前の作品『Baling』と密接に関連しているように思えます。この作品はワーク・イン・プログレス(進行中)とのことですが、この作品の裏にはどのようなアイデアがあり、またどこに向かっているのか教えていただけますか。

 

『仮構の歴史』は私とコラボレーターが2005年から行っている、マラヤ非常事態を巡る一連の作品群の最新のプロジェクトです。ドキュメンタリー・パフォーマンスで、その中では政治活動家のFahmi Reza(ファーミ・レザ)、パフォーマーFaiq Syazwan Kuhiri(ファイック・シャズワン・クヒリ)、ジャーナリストのRahmah Pauzi(ラーマン・パウジ)の3人が、個人的、国家的、推論的、概念的なものと交差させながら、「新しいマレーシア」の可能な歴史を探ります。私たちが2018年の終わりに始めたとき、このプロジェクトは、マレーシアで起きた政権交代と、2020年に新しい公式の歴史教科書が出版される予定だったことが部分的な動機になっていました。61年にわたりマレーシアの政権を握っていたUMNO以外の政党が率いた政権下での教科書の出版は初めてでした。新しい教科書が1月に出版された後、その内容をパフォーマンスに取り込みました。それ以外には、パフォーマー自身の考え、彼らの家族の非常事態の記憶、2008年に私たちが制作しようとした未完のドキュメンタリーから構成されています。そのドキュメンタリーは、1948年に、イギリスに抵抗するためにマラヤ共産党のゲリラ闘争に参加するためジャングルに入った11人の人々へのインタビューからなるものでした。

 

今年さいたま国際芸術祭、ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザール、そしてクアラルンプールで『仮構の歴史』を上演する予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大により延期または中止になりました。さらに、3月初めにマレーシアで再び政権交代が起きました。最後のリハーサルを終え、休みに入ったばかりの時でした。このプロジェクトに再び取りかかる際には、また内容をアップデートしなければなりません。マレーシアでは歴史は常に再構築されているからです。

 

新型コロナウイルス後は、全世界において何らかの形で社会的距離を置くことが求められることになると思います。新しい日常の中で、パフォーミング・アーツはどのようになっていくと思いますか?

 

マレーシアのパフォーミング・アーツの分野においても新型コロナウイルスの危機に対応する様々な波が起きています。現在のところ、そのほとんどは、状況に対応するための対症療法的なものですが、ロックダウンのような状況に置かれているので、それは当然のことと言えるでしょう。失ったプロジェクト、収入、仕事、機会について嘆くこと、この分野は不安定なフリーランスの労働者によって担われていることを認識すること、プロジェクトをオンラインに移行する急激な流れ、過去のパフォーマンスのアップロード、Zoomミーティングの開催、スクリーンを使ったパフォーマンス、新しい観客の獲得。意味や方向性を経験的に把握しようとすること、支援の衝撃的な欠如への悲嘆、関係する大臣や国家機関からの理解と情報収集、など。しかしこれらの問題は文化の従事者だけが抱えるものではありません。大工、会計士、建設労働者、医療従事者、全ての層の人々が同じような状況や課題に直面しています。

 

世界的な新型コロナウイルスの感染拡大の影響は、マレーシアでは、希望連盟の内紛と「裏口政府」と呼ばれている国民同盟政府による、政治のリーダーシップの危機により一層悪化しています。将来的にはワクチンが開発され、人々は再び集まるようになるでしょう。私はアート、儀礼、人々が集まることに社会的な必要性があると信じています。しかし、マレーシアにおける政治的な膠着状態は、次の10年間も続き、今後より短命な政党の連立、政権の交代があり、アイデンティティ・ポリティクスや個人崇拝が激化するのではないかと思います。封建的で利権誘導的な政治は私たちの社会に深く根づいており、それは大きな闘いを経なければなくなることはありません。

 

草の根のイニシアティブや市民の自己組織を通した、市民社会や大衆の信頼の修復や再建を急ぐ必要があります。政治的リーダーシップは何度も私たちを失望させています。私たちは#KitaJagaKita(私たちが私たちを守る)などのイニシアティブから多くのことを学ぶことができます。危機の時代にあって、多くの公的機関が迅速な対策がとれず、無策の状況にある中で、マレーシアの人々が自らことに当たろうと表明した最近の動きです。問題を共同で所有すること、団結と地域における解決策を探ること-当局から権力を分散すること、これをいかに「普通のことにする」か、が課題です。

 

私たちの活動が狭められるのであれば、アートや文化のエコシステムをもう一度考え直す必要があります。マレーシアのアーティストのほとんどは、非常に才覚があり、柔軟です。常に限られた支援を最大限活用し、様々なことをうまく調整することで、アーティスティックな実践や組織を維持しています。よりよい福祉や労働環境を得られるようにするためには、文化の従事者は異なった想像力、スタミナ、政治的意思を持つことが必要です。誰が権力の座にいるかにかかわらず、組合や職能集団の設立、新しい形の団体交渉、文化やアートのために進歩的な政策についての下からの提案などを行わなければなりません。もし私たちがそれを本当に欲するのであれば。そのためには状況に対応する(reactive)なスタンスではなく、自ら動く(proactive)なスタンスが必要です。


もちろん私たちはアートを作り続けていかなければなりません。そして、そのためにアーティストのイニシアティブ、または主導による、より小規模の、しかし緊急で野心的なテーマや枠組を持ったフェスティバルが開催されることを期待しています。無批判な多文化主義や華々しい回顧主義の、変わり映えがせず、使い古された言い回しをリサイクルした「国際フェスティバル」ではなく。やらなければならないことはたくさんあります。しかしまた、エコシステムを作り直すための多くの可能性、領域、共通の必要性もあるのです。

 

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<関連ページ>

YCAM「呼吸する地図たち」特設ページ
https://www.ycam.jp/events/2018/the-breathing-of-maps/

国際交流基金アジアセンターインタビューシリーズ Asia Hundreds
「現代マレーシアに鋭く切り込む社会派集団 ――マーク・テ&ジューン・タン インタビュー」(2015年)

https://jfac.jp/culture/features/asiahundred05/4/


国際交流基金 Performing Arts Network Japanプレゼンターインタビュー
「新世代アーティストが台頭 ファイブ・アーツ・センター」

https://performingarts.jp/J/pre_interview/1612/1.html